ICRA

1. ICRAは医療施設の工事に伴う感染リスクを体系的に評価し、患者を守るための必須プロセスである。
2. 工事タイプ・患者リスク群・環境要因を組み合わせて対策クラスを決定し、バリア設置や負圧管理などの緩和策を実施する。
3. ICRA 2.0では基準が細分化され、工事後の検証やテクノロジー活用など、より高度な安全管理が求められている。

1. 用語の定義

Infection Control Risk Assessment(以下、ICRA:感染管理リスクアセスメント)とは、医療施設内で行われる建設、改修、保守点検作業が、患者、職員、および訪問者に及ぼす潜在的な感染リスクを事前に評価し、それらを最小化するための具体的な予防策を策定・実施する体系的なプロセスを指します。

医療施設は、本来、病気を治療し健康を回復させる場所ですが、同時に免疫力が低下した「易感染性宿主(いかんせんせいしゅくしゅ)」が密集する場所でもあります。このような環境において、壁の破壊や天井裏の作業、配管工事などは、環境中に潜伏する真菌(カビ)や細菌を飛散させる重大な要因となります。ICRAは、単なる「工事の届け出」ではなく、医療安全の根幹を支える「リスクマネジメント」の一環として位置づけられています。

ICRAが包括する主要な4要素

実効性のあるICRAを実施するためには、以下の4つの要素を詳細に分析する必要があります。

  • 工事の種類と規模(Construction Activity Type): 小規模な壁の穴あけから、建物全体の解体、大規模な新築工事まで、物理的な介入の度合いを評価します。
  • 患者集団のリスクレベル(Patient Risk Group): 作業エリアおよび隣接エリアにいる患者の疾患、免疫状態、治療内容を把握します。例えば、骨髄移植後の患者と、健康な外来患者では、同一の粉塵量でも致死率が劇的に異なります。
  • 環境・物理的要因: 建物の空調システム(HVAC)、水系統の構造、空気の流れ、振動の伝播経路などを技術的に分析します。
  • 緩和策(Mitigation Strategies): バリアの設置、負圧管理、HEPAフィルターの使用、特殊な清掃プロトコル、作業員の動線分離など、具体的な介入手段を決定します。

学術的視点による「環境性病原体」の脅威

ICRAが特に対象とするのは、空気中を浮遊するアスペルギルス(Aspergillus)属などの真菌胞子や、水系統に生息するレジオネラ(Legionella)属菌です。これらは健常者には無害であっても、高度に免疫が抑制された患者にとっては、致死的な「侵襲性アスペルギルス症」などの原因となります。2003年のCDCガイドラインによれば、病院における建設・改修に関連するアウトブレイクの多くが、適切なリスクアセスメントの欠如による粉塵の拡散に起因していることが示唆されています。

表1:ICRAにおける基本的な考え方の枠組み
項目 詳細内容
評価のタイミング プロジェクトの設計段階から施工、完了後の引き渡しまで継続的に実施
主導者 感染管理認定看護師、施設管理責任者、およびプロジェクトマネージャー
アウトカム 感染予防許可証(Permit)の発行と、モニタリング記録の保管

現代の医療建築において、ICRAはもはやオプションではなく、FGI(Facility Guidelines Institute)やJoint Commission(TJC)といった国際的な認証機関によって義務付けられた標準プロトコルです。日本国内においても、日本環境感染学会などがその重要性を強調しており、安全な医療提供体制を維持するための不可欠な技術的基盤となっています。

2. 用語の背景と歴史

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ICRAの歴史は、医療技術の進歩と、それに伴う新たなリスクの発見、そして悲劇的なアウトブレイクからの教訓の積み重ねです。単なる事務的な手続きとしてではなく、医学的知見に基づいた「防護壁」として進化してきました。

1980年代〜1990年代:黎明期と集団感染の教訓

1980年代、高度な化学療法や臓器移植技術の普及により、極めて免疫力の低い患者が病院内に滞在する機会が増加しました。この時期、米国の複数の医療機関において、病院の改修工事や近隣の建設現場から飛散したアスペルギルスの胞子により、多くの免疫不全患者が命を落とす事態が発生しました。これらの事例を契機に、建設作業と医療関連感染(HAI)の因果関係が科学的に調査されるようになりました。

1990年代半ばには、工事エリアと患者エリアを物理的に隔離する「バリア保護」の概念が提唱され始めます。1996年、Kennedyらの研究において、リスクマトリックスを用いてバリアのレベルを決定する手法が初めて提示されました。これが現代のICRAマトリックスの原型となっています。

2000年代:標準化と法的枠組みの構築

2001年、FGI(Facility Guidelines Institute)のガイドラインにおいて「ICRA」という用語が正式に採用されました。これにより、設計・建設段階からの感染管理が義務化される流れが決定的となりました。続いて2003年、米国疾病予防管理センター(CDC)が「医療施設における環境感染管理のためのガイドライン」を発表。この文書は、ICRAの実施を「カテゴリーIB(強く推奨される介入)」として位置づけ、世界的な標準としての地位を確立しました。

2020年代:ICRA 2.0への進化と将来の展望

2020年から2021年にかけて、ASHE(American Society for Health Care Engineering)は、25年以上にわたる運用の蓄積を基に「ICRA 2.0」を発表しました。従来のモデルではカバーしきれなかった、複雑な現代の病院環境に対応するため、リスク評価の基準がより詳細化されました。

ICRA 2.0の主な特徴は、患者リスク群の再定義と、緩和策(クラス)の細分化です。特に、単なる「粉塵対策」だけでなく、作業員の教育、移動経路の確保、工事後の換気性能試験(バリデーション)に至るまで、ライフサイクル全体を管理する視点が強化されました。今後は、IoTセンサーを用いたリアルタイムの負圧モニタリングや、AIによる感染リスク予測など、テクノロジーを活用した次世代のICRAへの移行が予測されています。学術的な課題としては、微細な振動が既存の配管内のバイオフィルムに及ぼす影響など、よりミクロな視点でのリスク研究が進められています。

3. 用法と具体例

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ICRAを実践的に運用するためには、抽象的な理論ではなく、標準化された「リスクマトリックス」を正しく適用し、具体的な行動計画に落とし込む必要があります。ここでは、具体的な手順と事例を紹介します。

ICRA運用の5ステップ・プロセス

  1. 多職種チーム(Multidisciplinary Team)の結成: 感染管理専門家、施設管理部門、建設施工会社、および影響を受ける病棟の看護師長らが参加します。
  2. 建設活動のタイプ分類(Type A〜D): 作業による粉塵発生量を評価します。
    • Type A: 検査や非侵襲的活動(例:電球交換)
    • Type B: 少量の粉塵が発生する短時間作業(例:壁への小さな穴あけ)
    • Type C: 中程度の粉塵が発生し、壁や天井の解体を伴う作業
    • Type D: 大規模な解体や新築工事
  3. 患者リスク群の特定(Group 1〜4):
    • Group 1: 低リスク(オフィスエリア、一般外来)
    • Group 4: 最高リスク(骨髄移植ユニット、ICU、NICU、手術室)
  4. マトリックスによるクラス(Class I〜IV/V)の決定: 上記のタイプとグループを交差させ、必要な対策レベルを決定します。
  5. 予防策の実施とモニタリング: 決定したクラスに基づき、バリア設置や負圧管理を行い、定期的な巡回点検を実施します。

ケーススタディ:血液腫瘍センターにおける天井裏配管工事

状況設定: 骨髄移植患者が収容されている「Group 4」の隣接エリアで、中規模の配管漏れ修理(Type C)が必要となりました。マトリックスにより「Class IV」の対策が要求されます。

実施された対策:

  • 工事エリアを床から天井まで密閉する頑丈なプラスチックバリアの設置。
  • HEPAフィルターを装備した負圧除塵装置の24時間稼働。工事エリア内の空気が患者エリアに流れないよう、気圧差を連続モニタリングしました。
  • 作業員は、工事エリアに入る前に「前室(Ante-room)」で防護服に着替え、退出時に付着した粉塵を完全に除去。
  • 作業完了後、粒子計数器を用いた空気清浄度の確認と、環境表面の消毒を実施した後にバリアを撤去。

この徹底したICRAプロセスの遵守により、工事期間中も病棟内の環境真菌濃度は増加せず、患者への感染事例も発生しませんでした。これは「適切な介入が科学的に患者を守る」ことを示す典型的な成功例と言えます。

4. 関連語句と概念

ICRAを深く理解し、実務で活用するためには、その周辺にある重要な概念や関連用語との相関性を整理しておく必要があります。これらは互いに補完し合い、医療施設の安全性を重層的に支えています。

PCRA (Pre-Construction Risk Assessment)

PCRAは、ICRAと混同されやすい概念ですが、より広範な「建物全体のリスク評価」を指します。Joint Commission(TJC)が提唱するPCRAには、ICRA(感染管理)だけでなく、以下の要素が含まれます。

  • 生命安全(Life Safety): 工事による避難経路の遮断や、火災報知器の不作動のリスク。
  • 騒音・振動: 患者の安静を妨げる騒音や、精密医療機器に影響を与える振動。
  • ユーティリティの中断: 電気、水、医療ガスの供給停止リスク。

HEPA(High-Efficiency Particulate Air)フィルター

ICRAの対策において「心臓部」とも言えるのがHEPAフィルターです。定格で0.3μmの粒子を99.97%以上捕集する能力を持ちます。アスペルギルスなどの胞子の大きさは約2〜3μmであるため、適切にメンテナンスされたHEPAフィルター付きの負圧装置(Negative Air Machine)を使用すれば、物理的に真菌の拡散を防ぐことが可能です。なお、フィルターが正しく装着されていない「バイパス漏れ」が発生すると効果が激減するため、装着時の漏洩試験(リークテスト)が重要視されます。

負圧管理(Negative Pressure Control)

工事エリア内の気圧を周囲のエリアよりも低く保つ技術です。これにより、扉の開閉時であっても、常に空気が「外から中へ」流れ、汚染された粉塵が外部に漏れ出すことを防ぎます。ICRA Class III以上の工事では、微差圧計を用いて少なくとも-2.5Pa(パスカル)以上の圧力を維持することが推奨されます。

ILSM (Interim Life Safety Measures)

「暫定的な生命安全措置」を指します。工事によってスプリンクラーや防火扉が機能しない期間、臨時に警備員を配置して巡回を強化したり、避難訓練を追加実施したりする措置です。ICRAとILSMは、工事中の病院における「2大安全管理項目」として並行して運用されます。

5. 応用と実践的知識

ICRAの原則を実際の医療現場で継続させるためには、単なるマニュアルを超えた「組織文化」としての定着と、最新の法的・技術的動向の把握が必要です。

サプライヤー・コントラクター管理の重要性

病院スタッフがどれほどICRAを理解していても、実際に作業を行う外部業者が無知であればリスクは防げません。そのため、現代の高度な感染管理を行う病院では、以下の取り組みが一般化しています。

  • 認定資格の要求: ASHEやGreen Advantageが提供する「ICRA認定」を持つ施工管理者の配置を、工事請負契約の条件とする事例が増えています。
  • 事前の安全教育: 全作業員に対し、病院特有のリスク(易感染性患者の存在、アスペルギルスの脅威)についてのオリエンテーションを義務付けます。
  • 違反に対するペナルティ: バリアの隙間放置やHEPAフィルターの未稼働など、重大なICRA違反が発覚した場合の作業停止権限を感染管理部門に与えます。

水系統のリスク管理:レジオネラ症への応用

ICRAは「空気」の管理に焦点が当たりがちですが、配管工事においては「水」のリスクも同等に重要です。古い配管を切断・接続する際、管内のバイオフィルム(生物膜)が剥離し、レジオネラ属菌が末端の蛇口やシャワーから放出されるリスクがあります。これに対する実践的な知識として、工事後の十分なフラッシング(通水洗浄)や、一時的な高温殺菌、塩素消毒の実施がICRAの計画に含まれるべきです。

将来の展望:サステナビリティとICRA

近年、医療施設の建設においても脱炭素化(カーボンニュートラル)が求められています。しかし、高度なHEPAフィルトレーションや強力な換気システムは多大なエネルギーを消費します。今後の応用分野では、感染安全性を損なうことなく、いかにエネルギー効率を高めるかという「グリーン・ICRA」の議論が活発化しています。例えば、高性能なセンサーにより粉塵濃度を検知し、必要最小限の換気量に自動調整するデマンド制御技術などが注目されています。

結論として、ICRAは固定されたルールではなく、医療環境の変化、病原体の進化、そして建築技術の進歩に合わせてアップデートし続けるべき「生きたシステム」です。医療従事者と建設のプロフェッショナルが、共通の言語としてICRAを使いこなすことが、究極の患者安全につながるのです。

6. Q&Aセクション

Q&Aセクション

Q1: ICRAは小さな電球交換や壁のネジ留め程度でも必要ですか?

A1: はい、アセスメント自体は必要です。ただし、そのような軽微な作業は「Type A」かつ「Group 1(低リスク)」であれば「Class I」に分類され、特別なバリア設置は不要となります。重要なのは、勝手に「大丈夫だろう」と判断せず、体系的なプロセスに従って「Class Iである」と確認・記録することにあります。天井裏に隠れたカビの胞子が、電球交換の隙間から漏れ出すリスクを常に考慮すべきです。

Q2: 日本国内でICRAを実施しない場合、法的な罰則はありますか?

A2: 日本の法律において直接的に「ICRAをしないことに対する罰則」を規定した項目はありません。しかし、医療法に基づく「医療安全管理体制の整備」が義務付けられており、万が一工事に関連した集団感染が発生した場合、適切なリスク評価を怠ったとして、病院の安全配慮義務違反(民法上の不法行為責任)を問われる可能性が極めて高いと言えます。また、日本環境感染学会のガイドライン等に準拠していないことは、訴訟において不利な証拠となり得ます。

Q3: ICRA 2.0において、従来のICRAから最も大きく変わった点は何ですか?

A3: 最大の違いは、緩和措置(Mitigation)の記述がより詳細かつ具体的になった点です。特に「クラスV」という新たな最高レベルの対策が追加されたガイドラインもあり、現代の高度なクリーンルーム環境や移植病棟での超大規模工事に対応できるようになっています。また、工事中だけでなく、工事終了後の「引き渡し(Handover)」プロセスにおける環境検査の重要性が強調されるようになりました。

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